鶏とお粥と蜂蜜ばかりを食べていたショパン
Frédéric François Chopin(1810〜1849年)
早川智先生 (はやかわ・さとし)日本大学医学部病態病理学系微生物学分野教授
http://apital.asahi.com/article/history/2013011500003.html
ショパンは1810年2月22日、 ワルシャワ郊外にフランス人の父ニコラスと
ポーランドの下級貴族出身の母ジュステイナの間の唯一の男児として出生した。
父73歳、母77歳、次妹イザベラも70歳まで長命したが
姉ルドヴィカは48歳、末妹エミリアも「肺病」のため14歳で早世している。
ショパン本人も幼少期より虚弱体質で、16歳の時に最初の大病を経験
熱と咳、頭痛、頸部リンパ節の腫れが6カ月間続いたという。
21歳にして花の都パリに居を構え、当代一のピアニスト
天才作曲家としてデビューしたものの、25歳の時、高熱と喀血をみる。
結核が疑われ婚約も破談になるが、その後作家のジョルジュ・サンドと交際を始め
彼女の看病と温暖なパルマやマジョルカ島での転地療養によって
寛解と増悪を繰り返しながら比較的落ち着いた状態を保つ。
この間が芸術的にも最も安定し、数多くの名作が生み出された。
しかし性格の不一致からやがてサンドとは離別。
パリに戻ると夜毎のサロンコンサートを開き
さらに周囲の反対を押し切り英国へ演奏旅行に出かけるが
帰国後急速に呼吸不全が進行し、1849年10月17日パリで最期を迎えた。
享年39。
◆結核ではない?
ショパンは最も体調の良かった30歳頃でも
170cmの身長で45kgしか体重がなく
樽状の胸郭をしていて、わずかな労作でも疲れやすく
消化不良と慢性の下痢に悩まされていたという。
多くの伝記は彼の肺疾患を結核としている。
しかしパリに出て来る以前からすでに咳と血痰があり
20年以上の経過は有効な治療法のなかった当時としては長すぎる。
自分は心臓が悪いというショパンの手紙から
僧帽弁狭窄、三尖弁狭窄という仮説もあるが
労作時の呼吸困難は説明できても肺出血は説明できない。
反復する呼吸不全と体重減少、肺出血の原因として
オーストラリアの医師オシエは、嚢胞性線維症
cystic fibrosis (CF)に続発する気管支拡張症ではないかとする。
嚢胞性線維症は白人に多く、遺伝子保有者は白人人口の2〜4%に達し
患者も約2500人に1人の割合で見つかる。
子どもが冒されると、肺感染を繰り返し
抗生物質のなかった当時では思春期以前に亡くなるのが普通だった。
早世した妹エミリアはこれの重症型
39歳まで生きたショパンは軽症型ということになる。
さらにショパンには多くのガールフレンドがいたにもかかわらず
子どもがいない原因も、CFによる乏精子症のためではないかという。
CFでは膵の外分泌機能も障害され下痢をしやすいので
鶏とお粥と蜂蜜ばかり食べていたという食生活も説明可能になる。
◆遺伝子のしわざか受動喫煙
さて、生存に不利なはずの遺伝子が
集団に一定以上の頻度で存在するには、何らかの理由がある。
CFについては遺伝子のキャリアーが腸チフスに耐性であるという報告がある。
人口が都市に集中し衛生環境の悪かった当時の西洋では
腸チフスはしばしば流行し多くの死者を出した。
代々パリとワルシャワに住んでいたショパンの先祖は
腸チフスの洗礼を潜り抜けてきたのかもしれない。
またもう一つの鑑別診断として
α1アンチトリプシン欠損症(AATD)の可能性が挙げられている。
この疾患も常染色体劣性の遺伝疾患で、肺気腫と反復する気道感染を来す。
肺気腫の増悪因子の一つは喫煙である。
ショパン自身は非喫煙者だったが、サンド女史が愛煙家であり
いずれの背景があったとしても、かなりの受動喫煙を強いられたことは間違いない。