ミセス・ワタナベ

罪深いミセス・ワタナベ――日本の危機で円高になる理由
小幡績(おばた・せき) 慶應大准教授。
http://www.toyokeizai.net/money/investment/detail_column2/AC/87ee5ee88620dcfb65f13906eb5f5bcf/


震災直後に円高が進み
3月17日の早朝には一晩で一気に4円近い円高となり一時76円25銭をつけた。
日本経済が危機に陥ったにもかかわらず、国の経済力の指標である為替が強くなる
つまり円高となったのはなぜであろうか。


それはミセス・ワタナベ(Mrs. Watanabe)のせいである。


ミセスワタナベの話に入る前に
市場では、この円高についてどのような説明がなされたのであろうか。
いわゆるマーケットアナリストらのコメントでは
「生保、損保などが、国内支払いに備えて外貨建て資産を円のキャッシュに戻すため
円の需要が高まり円高が進む」というものが一般的だった。
これは明らかなポジショントークで、これほど幼稚なうそを市場関係者
少なくとも自分の経済的利益のために為替取引をしているトレーダーたちが信じるはずはなかった。


ちなみに、マーケットではこのような明らかなうそが語られることが多い。
それらを彼らが信じているわけではなく、意図的にそのようなうそを流しているのである。
これがいわゆるポジショントークで、自分の持っているポジション
ポートフォリオ、投資状況と言ってもよい)にいい影響を与えるような発言をするのである。
極端なポジショントーク風説の流布だが、為替に関しては有価証券ではないために
相場操縦に対する歯止めが利かなくなっている
(もちろん株式市場においても疑わしい動きは散見される)。


しかし、このうそを流した人々は、なぜ円高のストーリーを語る必要があったのだろう か。


為替取引と株式投資の違いとは何か。
それは後者がプラスサムになりうる(将来収益の変動を受け入れる代わりに平均ではプラスになる。
おカネを入れれば、資本増による利益の拡大が自然に見込めるから)のに対して
前者は完全なゼロサムゲームであるという点だ。
リーマンショックのときも、株も債券も不動産も全部駄目でも、為替はチャンスがあった。
相対価格であるから、すべてが下がることは理論的にあり得ず
勝ち馬は必ずいるから、勝つチャンスはあったのだ。
逆に言えば
ゼロサムであるから、誰かが安定して損していれば、その分平均的に儲かるということである。


これが為替においてはプロのトレーダーが存在する理由だ。
株式投資に関しては、デイトレーダーは愚か者と位置づけられ
頻繁な取引は、手数料と取引における心理的な歪みから、損失への道だと考えられているが
為替のプロのトレーダーは、デイトレで頻繁に取引する。
それが職業として成り立つ、つまり、平均的に儲かることになっている。


この理由は、為替取引においては、コンスタントに損をしてくれる人がいるからである。
かつては、これは企業などの実需の需要者であった。
外貨を稼いで、それを日本に還流したければ、円を買う必要がある。
これが実需の為替取引だ。この実需は、ある程度、量とタイミングの予測が立つので
それを利用して為替のプロのトレーダーたちは儲けてきたのである。


そして、現代においては、これがミセス・ワタナベに置き換わったのだ。


ミセスワタナベとは誰か? 
あなたの妻かもしれないし、隣の家の奥さんかもしれない。
私が教えている女子学生のうちの何人かも含まれるし、学生の場合は、男であることが多い。
ミセス・ワタナベとは、ご存じの方も多いように、日本におけるFX個人投資家のことだ。
FXというものは、ただでさえギャンブル性の高い為替(ギャンブルそのもの)に
レバレッジを何十倍も掛けて取引をするということで
世界的には、個人でこの取引をする人はほとんどいない。
プロ中のプロ、それも相場師タイプのトレーダー達がまみえる場が為替トレーディングだ。


それにもかかわらず、日本では
何もわからない素人でも気軽に始められる投資として絶大なる人気を誇っており
かつてのネット株ブームはFXに取って代わられたどころか、激しく膨張している。


なぜ彼女たちをミセス・ワタナベと欧米で呼ぶかというと
為替取引の世界において、これまでプロだけの動きで市場が決まっていたのが
彼女たちが参加するようになって、不可解な動きをするようになったから
関心が深まり、ふたを開けてみるとさらに予想外のトレーダーたちであったので
驚愕と蔑視の意味を込めて、日本の主婦トレーダーのミセス・ワタナベ
と呼ぶようになったのである。
関心があった理由はもちろん知的好奇心ではなく、利益追求のためであった。
一時は為替取引の3割以上を占め、大きな影響力を持ったため
彼女たちの逆張りに(為替のプロはほとんどがモーメンタムである)
予期せぬ損をさせられたからである。
そして、今度は、彼女たちを利用しようとしたのである。


つまり、彼女たちの行動パターンは意外なものであったが、分析してみると単純であり
動きもポジションも予想できるので、かつての企業の実需に対するように
彼女たちを利用して、つまり、損をさせて、その分、自分たちは平均的に儲けようとしたのである。


具体的には、彼女たちは、多くが逆張り
円高になれば円安に反転することを期待して、円をさらに売る。
そして、そもそもほぼつねに円を売っている。
それは自国に対する悲観と(つねに円高すぎると政治とメディアが騒いでいれば
それを信じるのが普通かもしれないが)、日本円がゼロ金利であることによる。
つまり、外貨を買えば、レバレッジで膨らんだ利子を獲得できるから
外貨を買って円安になれば最高だ、というポジションを持つのである。


そして最も大事なことは、彼女たちはプロと違って
デイトレーダーではなく、オーバーナイトをすることである。
要するにポジションを持ち越すということで
円を売ったらそのまま何日も、場合によっては何週間も置いておくのである。
これは為替市場では最もやってはいけないことの1つ、あるいは最もリスクの高い取引の1つだ。


なぜなら、為替取引は文字どおり24時間
世界中の市場で時差を補い合って間断なく取引されている。
したがって、ポジションを取ったまま、市場が開いているのに寝てしまう
という大失策を意図的に恒常的に行っているのである。
しかも、これはレバレッジを何十倍も利かせた取引なので、損失は
膨らむときは一気に膨らみ、元手の何倍も損をする可能性がある。危険すぎるのだ。


もちろん、彼女たちも十分に備えを持っている。
FX業者は、彼女たちに自動決済による損切りを強制している。
これは彼女たちが自己破産をしないための措置だが、その代償に
彼女たちの知らない間に、彼女たちの意思に反して、自動決済が行われてしまうのである。
つまり、寝ている間に円高が急速に進めば
彼女たちは知らない間に、円の買戻しを強制されるのである。


これが世界の為替トレーダーたちの飯のタネだ。
日本の機関投資家、プロの為替トレーダーが動けない日本の深夜あるいは早朝に
円高を仕掛け、その頂点で、ミセス・ワタナベに自動決済により
円を最高値で買い戻させ、自分たちはその相手方として、その分儲けるのである。


これが3月17日の早朝に起きた出来事だ。
極端に仕掛けるためには、相場が不安定で変動が高まっているときが仕掛けやすいし
追随者も出てきやすいので、仕掛けが容易になる。
日本が震災でパニックになっているときは仕掛けの絶好のチャンス。
そこにミセス・ワタナベという格好のカモがいるから
それを利用するには、円安で仕掛けるのでは駄目で、円高で仕掛けないといけない。
だから円高になったのである。


この仕掛け屋たちを、私は火事場泥棒と呼んでいるが
ミセス・ワタナベも同様に、いや無意識であるがゆえにより罪深い。