キューバ脱出記

パナマからキューバに向かう

2005年1月4日

中米のつらいバスの旅を終えて

パナマからキューバの首都ハバナに向かうことにした。

パナマから南米への入り口 コロンビアまではバスで行けない。

密林があって道路がいまだに作られていないとのこと。

だから、旅はここで一段落する。

そこで僕はカリブに行くことにしたわけだ。



パナマの空港搭乗口でキューバのツーリストカード(20USドル)

を買っている時、日本人の柴田夫妻に出会った。

柴田夫妻はホンジュラスで農業指導をしていて、スペイン語が堪能だ。

一泊40USドルのホテルを予約しているという。

「歩き方」には100USドル以上の高いホテルしか掲載されていない。

中級ホテルの情報が欲しかったところだ。

僕もその40USドルのホテルに連れて行ってもらうことにする。

タクシー代は柴田さんが出してくれた(20ドル)

※このように他の人が考えて作ったプランに便乗して
何も考えず楽に旅をする方法を「コバンザメ式旅行法」という。
(「これが正しい海外旅行」西本健一郎著より引用)


両替をする

キューバは2004年11月から通貨制度が変わって

これまではUSドルが流通していたのだが、USドルは使えなくして

すべて新ペソに置き換えているという。

1USドル=1新ペソ(等価)としているが

ドルから新ペソへの交換は10パーセントという高額の手数料を取られる。

新ペソからUSドルへの変換は手数料ゼロ。

(1USドル=1兌換ペソなので、以後はUSドル表示にします。)



ホテルを決めて中華街へ行く

ホテルの値段は柴田夫妻の部屋は40ドルで僕の部屋は59ドルだった。

同じタイプの部屋だったが、インターネットで予約すると安いようだ。

柴田夫妻は僕に悪いことをしたと、晩飯をおごってくれるという。

中華街に行くことになり、街を見ながら歩いていく。




商店のウィンドウにはチンケな中古品しか見当たらない。

何と貧しい街だろうか。




車は1950〜60年代のクラッシクカーが堂々と走っている。

パナマでは日本車が6〜7割、

のちに行く隣のジャマイカでは9割が日本車だったが

この国では、日本車はほとんど見かけない。



中華街は神戸よりも小さいもので、中国人がいる気配はない。

おそらくテーマパークのような作り物の中華街だろう。

ハバナ旧市街

1月5日



海ぞいを歩きながら、世界遺産の旧市街へ向かう。

ハバナの海は首都にしてはえらくきれいだ。底まで見える。

釣りが盛んで、なんという魚か知らないが嘴の尖った魚が釣れている。





旧市街の中心地、教会前広場に行くと

キューバ名物の葉巻を咥えた粋な爺さんがいて

写真を撮ってもいいよ、というので撮ると

「1ドルくれ」と言う。

どうやら、この爺さんはこれが商売のようだ。

よく見ると葉巻には火がついていない。

靴はボロボロだ。



いろんなヤツが声を掛けてくる。

日本(ハポン)からきたのか、東京か、俺のアミーゴは大阪にいるんだ、

握手、このパターンが永遠に続く。

結局は葉巻を買え、とか観光案内をするからチップをくれとか

そういう話だ。

石鹸(ハボン)をくれと言うヤツもいる。

観光客が石鹸を持ち歩いているはずもないのだが・・


ハバナの観光名所

この国の観光の目玉は、世界遺産の旧市街と

ノーベル賞作家ヘミングウエイが1940年〜60年までの20年

ハバナで住んでいたということで

行きつけだったバーなどが観光名所となっている。

ヘミングウエイ博物館もある。



ヘミングウエイがよく寄ったというレストランに行くことにして

自転車タクシーに乗ると、まったく違う店に連れて行かれた。

これはインドで経験したから知っている。

店に客を連れてくるとレストランから運転手にマージンが入るのだ。

僕は自転車タクシーの座席からまったく動かない。

はやくヘミングウエイのレストランに連れて行けと催促する。

ヘミングウエイのレストランは観光客で満員だったのでやめた。



夜、ホテルで柴田夫妻に再会し

明日、僕はバラデロビーチに行きます、と別れを告げた。


バラデロへ向かう

2005年1月6日 




バスに3時間乗ってバラデロに着いた。(10ドル)

白い砂と青い海。

ここは本当にすばらしいロングビーチだった。

白人がバケーションを楽しんでいる。

海とレストランの他には何もないが

カップルでまったりするなら、最高のリゾート地だろう。




ATM

銀行のATMでシティバンクカードでの引き出しを試みたができず

VISAカードでキャッシングできた。

キャッシングの利息は2,5%だったが、両替で10%取られるより安い。

ビールはブカネロ

ハバナに戻る

1月8日(土曜日)

朝8時のハバナ行きバスに乗る。

バスに乗るとき、荷物をバスの底部に入れるが

その際、手数料として1ドル取られた。

荷物を預けるときに手数料を取られたのは初めてだ。

行きは取られなかったので、

これはバラデロのターミナルで独自に行っている不当な請求だと思われる。

普通はバスに荷物を積み込むとき、乗り口と同じ側で荷物を入れさせるが

ここでは乗り口と反対側に一人ずつ行かせて荷物を入れさせられた。

そこで1ドルを要求する。

これを切符係と荷物係と運転手が組織的にやっている。

観光客から小銭を徴収して、お小遣いにしているようだ。


新市街(ベダード地区)

ハバナに戻り、新市街のホテルに泊まることにする。

ホテルで、チェックアウトしていく日本人の男2人組に会う。

彼らはメキシコ在住ということでスペイン語が堪能。

彼らが街の人に声を掛け、月収はいくらかと聞いてみたところ

写真関係の仕事をしている人だったそうだが

月収は5ドルと答えたという。(日収ではなく月収だ)

社会主義で医療費はタダ、教育費もタダだというが

それにしても月収5ドルというのは本当だろうか?


金をせびるガキ

ホテルのそばでウロウロしていると

ロナウド似のガキから金をせびられた。

顔に大きな傷がある。ナイフの傷だろうか。

金はやらない。

ガキは僕のことを「チーノ」、「チーノ」と大声で罵り始めた。

(「チーノ」は中国人を侮蔑した言葉)

えらくむかつくが、そのガキの顔が怖いのでそそくさと逃げる。

しかし、この国のコジキはしつこい。

もらえるのがあたりまえのような顔で、しつこく請求してくるから

腹が立つし、もう街を歩きたくなくなる。


カストロの致策

この国のことがだいたいわかってきた。

庶民の経済と観光客の経済が、まったくかけ離れているのだ。

街角で一般庶民がコーラなどを飲んでいるのを見た記憶がない。

コンビニ的な店も見当たらない。

おそらく庶民にとってコーラは贅沢品であろう。

コーラやビールは旅行者のためにあるのだ。

そんな貧乏な観光国はこれまで見たことが無い。



あとでわかったことだが

驚くべきことに旅行者が使わされている新ペソとは別に

旧ペソが庶民では使われていて、まったく別の経済があるという話だ。

つまり、新ペソは旅行者のためにわざわざ発行したもので

「新ペソはUSドルと等価ですよ」と

強制的に両替させ、その手数料10%を国の利益にしているわけだ。

ペソはこの国から持ち出せば紙クズでおもちゃ銀行のお札と同じである。



なぜ海がきれいなのかわかった。

捨てるものが何も無いし、石鹸もないのだ。


ジャマイカ行きの切符を買いたいのだが・・

もうこの国は嫌になった。ジャマイカに逃げよう。

しかし、まだ切符を買っていない。

3軒の旅行会社に行ってみたが、ジャマイカ行きの切符が買えない。

スペイン語が未熟なので理由はよくわからない。

それ以前に、まったくやる気のない連中でおしゃべりばかりしている。

これが社会主義というやつだ。

_| ̄|○

(落胆している様子。「2ちゃんねる」より)



5つ星ホテルのツアーデスクは、割とまともな対応だった。

「今は土曜日の午後で

エアージャマイカのオフィスは閉まっているから

空席状況はわからないが

9:40にジャマイカ行きの便があるから、明日の朝、空港で買え」

と指示されたので、明日の朝、空港で買うことにする。


空港

2005年1月9日(日曜日)

9時40分発のジャマイカ行き航空券を買うために

ホテルのウエイクアップコールより先に目覚め

万全の構えで、空港に7時前に着いた。

外はまだ暗い。

空港までのタクシー代は20ドルだった。



◆8:00(1時間経過)

エアージャマイカの小さなオフィスが開いた。

9時40分発のジャマイカ行きは、すでに満席で

もう一本の午後の便も満席と宣告され、愕然とする。

「明日の便は?」と聞くと、「わからない」との答え。

調べてくれる気配は無く、もうオフィスを閉めようとしている。

_| ̄|○



明日ここに来ても買えるかどうかわからない。

また街に戻って旅行会社で聞いてみるか?

でも今日は日曜日で旅行会社は休みだろう。

月曜日に旅行会社に行くと、出発は早くても火曜日だ。

すると今日と明日ハバナに滞在することになる。

しかし、ハバナにはもう滞在したくない。

火曜日の切符が得られるという確証も無い。



いらいらする。

待合室に蝿がやたら多い。なんで空港に蝿がいるんだー!?

_| ̄|○



◆8:30(1時間半経過)

ジャマイカ行きはあきらめて

電光掲示板を見てナッソー(バハマ)行きを探すが見当たらない。

サント・ドミンゴドミニカ共和国)行きは、もうすぐ離陸する。

マイアミ行きを探すが無い。

アメリカとはまったく繋がっていない。仲が悪いようだ。

アメリカを飛び越えてトロント行きがあるが、もちろん行きたくはない。

近場ではメキシコのカンクン行きがクバナエアー11:25とある。

とにかくキューバから早く出たいので、カンクンで妥協しよう。

クバナエアーのカウンターに行くと、白人のおネーちゃんは

「まだコンピューターが稼動していないので、9:30に来てね。」と言う。

お祈りをして1時間待つ。



◆9:30(2時間半経過)

クバナエアーのカウンターに行くと

カンクン行きは満席だわよ!

(今ごろ何言ってんのかしら、このチーノ!)」

って感じで冷たくあしらわれる。

_| ̄|○ 



気を取り直して

「じゃあ、明日のカンクン行きを売ってくだちゃい」とお願いする。

「ちょっと待ってね〜」と言って、おネーちゃんは

どこかに行ってしまい、帰ってこない。

どこかでダベッているのだろう。



◆10:30(3時間半経過)

1時間が経過したがおネーちゃんは帰ってこない。

ああ、これが社会主義ってやつなんだ。

カンクン行きはあきらめた。

_| ̄|○



◆11:00(4時間経過)

蝿のたかるカウンターカフェで

ツナサンドを注文すると、愛想の悪い女店員は

お金を触った手でパンを押さえて、包丁でパンの腹を開き

ツナ缶に包丁を突き立てて缶を開けてツナを取り出し

スプーンでツナをつまみ食いしたあと

そのスプーンでツナをパンの腹に押し込んで

ツナサンドの出来上がりだ。

メニューの写真にはレタスとトマトも挟まっているのだが・・

_| ̄|○



◆12:00(5時間経過)

メヒカーナ航空の小さなオフィスが、いつのまにか開いているのに気づいた。

電光掲示板でメヒカーナ航空を見ると15:40メキシコシティ行きだ。

聞いてみると、席があった。料金は464ドルという恐ろしい値段。

メキシコシティは僕が旅をスタートした街。

大気汚染がひどく、喉が痛くなった。

地下鉄もぎゅうぎゅうで、人々の表情は暗く

僕の印象は最悪で、もう二度と来るものかと誓った街だ。

しかし、この国から出られるのなら、どこでもいいや!

もうヤケクソだ。メキシコシティ行きを申し込んだ。



◆14:00(7時間経過)

バウチャーをボーディングパスに変換。

国税のカウンターで25USドル払わされて

ボーディングパスの裏にぴかぴか光るシールを張られた。

国税を支払ったという証明のシールだ。

とことんボッタクリやがる国だ。



◆15:30(8時間半経過)

飛行機はほぼ満席で

メキシコシティ行きも危うかったことがわかった。



◆18:00

メキシコシティの空港に降り立つと

メキシコ人がなんともいとおしく感じ、抱きしめたくなった。

ああ、いい街だ。メキシコシティ



ロンリープラネットキューバ」をホテルのゴミ箱に叩き込んだ。

パナマシティで22ドルも出して買った本だ)

ついでに「地球の歩き方・カリブの島々」のキューバのページも破り捨てた。

二度と行かねー、キューバなんて!

あんたも行くな。


キューバ人の平均月収

帰国後「キューバ人の平均月収は20USドル」との新聞記事を読んだ。

とすると、1日70円くらいで家族が生活するということになる。

ならば、キューバの庶民はコーラやビールなどを飲めるはずがない。

旅行者のチップは1USドルが普通だが

1USドルはキューバの庶民にとっては大金だろう。

そう考えると、キューバ国民全員がゾンビのように

「1ドルくれ〜」「1ドルくれ〜」と迫ってきても不思議ではない。


圧制国家

2005年1月、アメリカのライス国務長官

キューバミャンマー北朝鮮、イラン、ベラルーシジンバブエの6カ国を

「圧政国」と名指しで批判した。


柴田さんからのメール

1日目をご一緒させていただいた柴田さんからメールをいただきました。

「私達は、その後知り合ったキューバ人から

地元のペソがUS$1に対して25ペソだと言う情報を得たので

なんとか地元のペソを手に入れ、高いタクシーに乗らずバスに乗ったり

地元の人が食べてるハンバーガーを食べたり・・・」

「観光客は高いホテルやタクシーやバスやレストランを使い

地元の人はホテルに入ることすら出来ないそうです。

どうも納得いかないのですが、兌換紙幣導入によって

観光客からお金を取ろうというシステムのようですね。」

「それはそれとして、キューバの街並みや海は本当にきれいでしたね。

私達はハバナから20キロ位のプラヤに行ってみました。

そこもとてもきれいな海でした。もちろん、安いバスで日帰りです。

それ以外は市内をブラブラしながらたくさん写真を撮りました。」

「残念なことに、帰りの飛行機でデジカメのカードを盗まれてしまい

パナマ運河キューバの街並みはパーです。

でも、鍵をかけずに貴重品を入れて荷物を預けた自分たちに非があると思い

諦めました。ところが、カメラに入っていた1枚だけ残ったカードには

キューバの初日が写っていたので、RYOさんの写真はバッチリです。」



貴重な情報をありがとうございました。

 

後記

キューバの印象が悪かった最大の理由は、僕のスペイン語が稚拙で

帰りの切符を買うのにえらく手間取ったからです。

往復切符で行けば問題はないでしょう。


旅はマイアミビーチへ続く
http://d.hatena.ne.jp/sna59717/20050111

 

※プロムナード世界史 浜島書店より

キューバ革命キューバ危機

革命前のキューバ

キューバは1898年のアメリカ=スペイン戦争を機に独立したが

それは名目的なものであり

実質的に経済・軍事面でアメリカの従属下におかれていた。

 

キューバ革命(1959年)

カストロら革命軍はソ連の支援を受けて

アメリカに支援されたバティスタ独裁政権を打倒。

キューバの米資産を接収した。

 

キューバ危機(1962年)

ソ連によるキューバでのミサイル基地建設を知った

アメリカ大統領ケネディは強硬に抗議。

海上封鎖を行い緊張は高まったがソ連のフルチショフが譲歩

核戦争への危機は去った。

キューバ脱出記 おわり